外国人になる必要はない。間違っても通じる英語を。

世界の人口でみたときに、英語を母国語としている人は約5%程と言われています。つまり、残りの95%の人で英語を使う人は、第二言語として使っているということです。私たちは日本人です。無理に頑張って英語のネイティブスピーカーになろうとしてもなれません。しかし、地球人として、国境を越えて、様々な人と英語という言葉を通してコミュニケーションを十分に取ることはできます。

 

個人的な体験で、今まで世界の様々な国の人々と英語でコミュニケーションを取ってきました。アメリカ、イギリス、オーストラリアなど英語を母国語としない国をあげると(公用語として英語を使っている国はありますが)

ドイツ、韓国、フィンランド、オランダ、アラブ、モロッコ、インド、ネパール、スリランカ、バハマ、ペルー、ギリシャ、コロンビア、ブルガリア、ルーマニア、ベルギー、ガーナ、ヨルダン、イラン、アイルランド、フランス、中国、タジキスタン、パキスタン、ロシア、アルゼンチン、ブラジル、ミャンマー、タイ・・・

結構いろんな国の人とであってきたんだなぁとあげてみると実感します。そして、ポイントになるのは、彼らの英語は必ずしも完璧ではなかったということです。それは僕も含めて。でも、十分にコミュニケーションは取れました。

 

あくまでも英語はコミュニケーションのツールで、勉強のツールではありません。なので、ある文章を切り取って、文法的に分析したとしても、そこにはライブ感が存在しません。単なるコードの解析です。もちろん、言語学など言葉を研究している場合は別ですが。言葉とは生きていて、話している時の空気感、人と人とのエネルギーの共鳴があって、はじめてコミュニケーションが生まれ、人との繋がりや絆などが芽生えます。この点で、間違っていても、ボディランゲージや場の空気で理解ができるものです。映画「男はつらいよ」の第41作「寅次郎心の旅路」で、寅さんはオーストリアのウィーンに行きます。公園であの格好でベンチで座っていると、隣にウィーンの女性が座り、女性はドイツ語で寅さんに話しかけ、寅さんは日本語で話しかけます。そして、二人ともしっかりとコミュニケーションが取れています。まぁ、これは映画の話ですが、でも実際にこのようなことはあるのがコミュニケーションです。言葉を発する前に気持ちがお互いに通じる、共感能力と言えます。

 

ちなみに、英語の教師を目指していたとき、教育実習で上記の点を踏まえて、あえて「間違った」英語を使って授業を行おうとしました。ブルガリアの友人が送ってきた英語での自己紹介でした。世界交流において、正しい英語だけではなく、様々な英語がある事を伝えたかったのですが、ダメだしでした。教育指導要領では間違いはダメなんですね。それを知ったとき、まだまだ日本の教育は保守的なんだなと実感し、英語の教師になるのを止めて、更に英語の探求を続けることにしました。

 

DECでは、上記の点をポイントにしています。間違ってもいいし、日本語を使ってもOK。文法や発音も一切気にせず、コミュニケーションを取り、英語を使うというモードのスイッチを押していくプログラムで行います。

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